〜パンダ技士の徒然日記〜

一児の父親です。事実は小説よりも奇なりと言われますが、世の中は本当に面白いことばかり。何でも自分の目で見て、聞いて、読んで、食べて、考えて、試してみて、書いてみて。真面目だったり、シュールだったり、センチメンタルだったり。

あいまいな基準で物事を言ってはいけません、という件 

安全保証関連法案は強行採決なのか

 先日、安全保障関連法案が参院本会議で可決されました。僕個人の意見としては、この法案は昨今の国際情勢を考えた時に必要な法案だと考えています。政府の進め方はやや強引なところはありましたが、でもそれでも一応議会制民主主義のルールに則って法案が可決されました。数だけが民主主義の全てはありませんが、議論を尽くしても妥協に至らなかった場合は、最後は多数決で決めざるを得ないのが基本だと思います。全員が賛成する法案なんてめったにあるものではありません。それが例え国の在り方に大きく関わる法案であってもです。みんなで妥協できれば一番いいのですが、そうは簡単にいかないのが世の中です。議論が平行線なら最後は多数決。一応、主権者である国民の信任を受けた国会議員の票です。制度上は、強行採決でも何でもありません。

 法案の中身については散々マスコミでも報道していましたし(偏向報道の気はありましたが。。)僕よりもはるかに詳しく書ける人がたくさんおりますので、ここで改めて書く事はしません。今日は今回のような法案可決の際にいつも不思議だなぁ・・・と思う事を書きたいと思います。

いつも不思議に思うこと

「国民的理解が得られていない」とか「大半の人が反対なのに」とか出ますけど、僕はこの意味がいつも分かりませんでした。「国民的理解」とは一体何なのか、どうなったら「国民的理解」が得られた状態と言えるのか、全く分かりません。はっきり言ってそれが満足された状態になるには、人それぞれ程度が違うはずです。「国民的理解が得られている」とはどういう状態なのか。何%の人が理解していればその状態を満足できるのか。きちんとした定義はなく、その程度は主観に過ぎません。「大半の人が反対している」もそうです。ほとんど決まり文句みたいに出ますが、大半とは何なのか。通常は5割反対であれば大半となりますが、本当にそんなに反対なのか、疑問に思う事が多々在ります。

 根拠となる統計データは、通常はマスコミが発表するものでしょう。サンプル数の基準も各社それぞれで違うので一概に比較できませんし、それにアンケートなんて質問の仕方や質問者の意図によってかなり変わってくるものです。統計の危険性はそこにあります。そんなきわめてあやふやな結果を絶対的な盾にして、政策を語る姿勢には違和感を感じます。少なくとも、僕は質問されたことすらありません。本当に必要な統計であれば、国勢調査くらいのレベルでやらないといけないのです。でもそんなことを毎回やっていては時間もコストもかかりすぎて現実的ではありません。ですから、政治は信任を受けた議員に任せているのです。だからといって何をやってもいいわけではありませんが、少なくとも選挙前に公約として公言していたことです。もし結果的に政策が間違いがあると判断した場合は、次は投票しなければいいのです。制度上は、一度通った法案を廃案にすることもできます。

 話を戻しましょう。何が言いたいかというと、本来あまりに曖昧な基準を元にして、それをあたかも絶対的なものとして物事を話していないか?ということです。統計は参考にするが、それを絶対的なものとして扱うのは問題ありです。反論する材料としては使いやすいかもしれませんが、全くの説得力不足です。情緒に訴える方法では国民の支持は得られません。その手法、僕は見透されていると思います。ちょっとでも統計をかじった人間ならば、そんな簡単に結論など出せるわけがありません。

 

数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活―病院や裁判で統計にだまされないために

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 「それ、根拠あるの?」と言わせない データ・統計分析ができる本

マンガでわかる統計学

ヤバい統計学

 完全に技術者視点ですいません。でも、データの根拠ってすごい重要なんだよぅ。。。という事を主張させて頂きました。データのサンプルはできる限り多く、そして主観は入れない。そこからしか本当の事実は見えてきません、でした。技術的視点と政治の視点は当然違いますが、しかし主張の根拠となる数字はもっと慎重に使わなければなりません。たまには真面目なことを語ってみました。